第1章 30年間の助走(1966〜1996)
■私が生まれた時代について

 自らの半生について、初めて文章化してみる。もとより誇るべき生き方などしていない、それどころかむしろ情けない、恥ずかしいエピソードばかりの我が半生ではある。が、一応は個人オフィシャルサイトを名乗っている手前、それなりに読ませるプロフィールというものは、コンテンツとして不可欠であろう。とりあえず現在の仕事をする以前のストーリーについて、人生の転機となった出来事を中心に書き起こしてみる。

 どんな人間であっても、生まれてくる時代と場所、そして親を自ら選ぶことはできない。私の場合、1966年(昭和41年)3月1日、日本国福岡県三池郡にて、会社員の父と専業主婦の母との間に生まれた。両親が結婚したのは、東京五輪が開催された2年前。私は3人兄弟の長男である。生まれた場所が福岡の三池だったのは、たまたま父親の最初の赴任地が当地の炭鉱町であっただけの話であって、私自身は福岡という土地にも(そしてアビスパにもホークスにも)特に愛着は持っていない。

 ちなみに66年という年は、ザ・ビートルズ来日、ワールドカップ・イングランド大会開催の年として記憶されるが、若い両親と幼子だった自分が映った当時のアルバムを眺めていると、今よりずっと希望に満ちていた時代の空気が偲ばれ、何とも不思議な気分にさせられる。日本人の大半が、高度成長期のうねりに飲み込まれていた時代。働けば働いただけ報われると信じられた時代。そして今よりも明るい未来に、誰もが夢を投影することができた時代……。

■あまりに短すぎた「ボールは友だち!」の時代

 物心ついた時には、私の一家は東京で暮らしていた。最初は目黒区、次いで杉並区、そして父親がマイホームを立てたのが練馬区。一介のサラリーマンが都内に一戸建てを建てられた、夢多き時代の話である。

 さて、私の少年時代について語る。履歴書を見る限り、私は2年間の大学浪人時代を除いて、小学校から大学院までずっと公立学校に通っていた孝行息子であった。けれども実際のところは、勉強が嫌い、スポーツも苦手、友だち付き合いも極端に下手で、親には心配ばかりかけていた。暇さえあれば、ぼんやりと怪獣や宇宙人のことを夢想しつつ、教科書の端っこにマンガばかり描いているような子供であった。

 そんな私が「少年サッカー」という、健全かつ明朗な世界と接することになったのは、今にして思えば奇跡としかいいようがない。5年生の時に転校した小学校で、ひょんなことからサッカーボールを蹴ったことが、その後の人生を大きく変えることとなる。ちなみに当時の私は意外と俊足で、ゴール感覚に優れたセンターフォワードであった。

 ただし「ボールは友だち!」と感じられた幸福な時代は、そう長くは続かなかった。中学でも高校でも、サッカー部に入部したものの、与えられたポジションはいつも「ベンチ」。公立の学校にしてはレベルが高かったこともあり、来る日も来る日もボール拾いとランニングと筋トレ。結局、試合に出場することはもちろん、練習でアピールする機会さえ与えられず、多感な6年間は空しく過ぎ去っていった。

 後年のフットボールをテーマとした文章に、何ともいえぬシニカルな表現が散見されるのも、きっとこの時の体験が無意識下で影響しているのであろう。

■モラトリアムの時代における重要な出会い 

「絵だけ描いていればいい大学があるらしい」――そんな夢のような話を耳にしたのは、すでに大学受験でサッカー部を引退していた高校3年の3学期である。

 それまで一応は受験の準備はしていたものの、漠然と一般大学に進学することに空しさを覚えていたのも事実。結局のところ私は、2月の時点でその年の受験を諦め、両親が茫然とするのを尻目に、さっさと美大受験のための浪人生活を開始した。このころの私は、漠然とではあるが「何かをヴィジュアル的に表現する人間になりたい」と考えるようになっていた。そしてそれは、自らの意志で人生を決しようとした最初の瞬間であった。

 浪人時代は2年続いた。それまでの人生において最も集中し、そして努力し続けたという意味で、それなりに充実した2年間であった。そして86年、晴れて大学に入学。私を迎え入れてくれた奇特な大学は、東京藝術大学美術学部工芸科。ここで私は、大学院時代を含めて6年間、楽しくもモラトリアムな時間を過ごすこととなる。

 この大学時代で特筆すべきことは、大きく3つあった。藝大サッカー部で、夢のレギュラーポジションを獲得したこと(センターバック。ただし空中戦に弱い)。写真の技術(撮影から現像、プリントまで)を学ぶ機会を得て、映像表現を将来の生業にしようと決意したこと。そして、素晴らしき友人や先輩・後輩と出会ったことである。

とりわけ、この時代における人との出会いは、私の人生の中でも極めて重要な位置を占める。何事にも消極的で頑なで歪みきった性格が、一応は是正されたのも、彼らとの出会いがあればこそである。卒業後、再会する機会はめっきり減ったが、たまに顔を合わせれば同時代を謳歌した同志としての感情が、当時の恥ずかしい思い出とともに蘇ってくる。

■初めてのひとり暮らしとAD時代

 世代的に言えば、私はいわゆる「バブル世代」であった。だが浪人2年、大学院2年とモラトリアムをズルズル続けているうちに、バブルの狂乱はすでに終息に向かっていた。バブルの恩恵に授かった記憶など微塵もない。92年、26歳で最初の就職をする。

 当時の私は、自分の進む道を「映像表現」と定めていたものの、それがスティール(写真)なのかムーヴィー(映像)なのか決めかねていた。写真はひとりで出来るが、逆に映像の制作現場は組織に入らなければ学べない。そんなわけで最初の社会人としての着地点は、学生向けの就職活動ビデオを制作する会社を選んだ。

 初めて親元から離れて、中央線沿線でひとり暮らしを始めたのも、この年からだった。まだ携帯電話が普及していなかった時代、自分だけの居住空間に自分専用の電話を確保したのは、とても誇らしく感じられた。家賃5万5000円。風呂はないが、7畳ある板の間のスペースは、暗室作業には十分な広さだった。結局、36歳で結婚するまでの10年間、私は暗室に寝泊りするような倹しい生活を続けることとなる。

 94年、思うところがあって転職。同じ映像業界だったが、今度はTV局のスポーツ番組がメインの仕事である。以前の会社では、AD(アシスタント・ディレクター)としての教育をほとんど受けることがなかったため、2歳年上のおっかないディレクターにビシビシ鍛えられることとなった。徹夜作業が続き、眠気を紛らわせるために27歳にしてタバコの味を覚える。毎日が緊張感と叱責と消耗の連続。だが、私をシゴいてくれたディレクター氏には、今でも本当に感謝している。取材現場での仕切りやインタビューの基本、さらには番組の台本の書き方など、実践的なノウハウは全て彼によって叩き込まれたといってよい。その後の私の文章表現は、この時代に無意識のうちに培われたものである。


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