第2章 バルカン、サポーター、そして「ディナモ」(1997〜2000)
■1997――忘れえぬバルカンへの旅

 「31歳までに写真家宣言しなければならない」

 30歳を過ぎてから、私はずっとそんな言葉を呪文のように繰り返しながら、日々の生活を続けていた。すでにTV業界に限界を感じていて、一日も早く辞めてしまいたかった。では、辞めてどうする? 勤め人という安定した生活にピリオドを打ち、写真家になる――それが私が出した結論であった。「31歳までに」というのは、当時最も尊敬していた写真家、アラーキーこと荒木経惟が31歳で「写真家宣言」したことに由来する。97年の天皇杯のビデオ制作(優勝したのはヴェルディ川崎だった)を最後に、私はお世話になった映像制作会社を辞めた。

 2月22日、成田空港第2空港ビル。出国カード(現在は省略されている)の職業記入欄に「写真家」と書いて、私は初めてのバルカンの旅に出発した。なぜバルカンだったのか、なぜ旧ユーゴスラヴィア諸国に向かったのか、正直なところ、今でもよく分からない。それが運命だった、としか言いようがない。確実に言えることは、敢えて危険な、未知な世界に自分を追い込むことで、今後の写真家人生の運を試してみたいという切迫感が私の背中を押していたように思う。当時、ユーゴ紛争は終結して2年しか経過しておらず、少なくとも我が国では、およそ気楽に旅行できる地域とは思われなかった。

 この時の旅の物語については、拙著『幻のサッカー王国』(勁草書房)に書かれてある通りである。あらためて読み返し、あの旅の中で撮影した写真を見てみると、表現力の拙さにしばしば赤面しながらも、一方で「あの時のような旅は、もう二度とできない」という事実に慄然とさせられる。その後、私は何カ国も旅することになるが、あの時のような鮮烈かつ濃密な旅というものは、いまだに体験することなく現在に至っている。

■1998――初めての書籍、初めてのワールドカップ

 97年から98年にかけての私は、アルマトイからもジョホールバルからも遠く離れて、ただひたすら自室にこもって原稿執筆とプリント作業に追われていた。そしてこの年の5月、ついに私のデビュー作『幻のサッカー王国』は世に出ることとなった

 言うまでもなく私の書籍デビューは、多くの偶然がうまい具合に重なって初めて実現したものだ。しかしながら、物書きとしてのキャリアを全く積むことなく、いきなり著者デビューしてしまったことは、時として私に大きなハンディを課すこととなった。すなわち、著書はあるのに仕事がない、という状況がしばらく続くことになったのである。

 この年、日本が初めて出場したワールドカップがフランスで開催され、私は何の疑念も不安も抱くことなく、私は祭典の地に乗り込んでいった。この大会での私の目的は、日本代表の応援でも好カードを堪能することでもなく、初めて目撃するワールドカップそのものを体感することである。ただし当時の私は、チケットもプレスパスも持たない、単なる旅行者でしかなかった。そこで思い立ったのが、ワールドカップ出場32カ国全てのサポーターのポートレイト撮影である。そうだ、ついでにアンケート形式によるインタビューもやってみたら、どうだろう――「サポーターズ・プロジェクト」は、そのような経緯からスタートした。

 フランス98での私の悪戦苦闘と「サポーターズ・プロジェクト」の成果については、拙著『サポーター新世紀』(勁草書房)に詳しい。いずれにしても、気の置けぬ仲間たちと車でフランス全土を駆け巡りながらサポーターを追いかけた日々は、私にとって何ものにも代え難い、貴重な体験となった。

 なお、この年の12月から、インターネットマガジン『サッカークリック』にて、写真とコラムによる連載がスタートする。私にとって、初めての連載であった。

■1999――貧しくも新たな方向性が見えた年

 3月24日、ロンドンのガトウィック空港での私の選択は、その後の活動に大きな転換を与えるものとなった。NATO軍によるユーゴスラヴィア空爆が前日に迫っていたこの日、私はベオグラードで開催されるユーロ2000予選、ユーゴ対クロアチアという歴史的なゲームを観戦するべく、空港で事態の推移を見守っていた。

 結果として、ベオグラード行きの便は欠航。死ぬほど逡巡した後、私はチケットをグラスゴー行きに変更する決断を下した。現地では、スコットランド対ボスニア・ヘルツェゴヴィナの試合が予定されていたからだ(だが、この試合もユーゴ対クロアチアと同様、空爆の影響で延期となってしまう)。

 もしあの時、飛行機がベオグラードまで飛んでいたら、私はきっとフットボールではなく、バルカン情勢を追いかけるフォト・ジャーナリストになっていただろう。この時、イングランド、スコットランド、そしてアイルランドといった「伝統国」を訪れたことで、私はますますフットボールの世界にのめり込んでいくこととなる。

 2冊目の著書となる『サポーター新世紀』を上梓したのも、この年だ。「3年後のワールドカップを控えたホスト国・日本に、サポーターの姿を通して大会のイメージを伝えたい」――それが本書に込められた私のメッセージであった。ただ残念なことに、本の売れ行きは芳しくない結果に終わった。発売のタイミングが早すぎたこと、そして値段が高かったことが大きなマイナス要因だったようだ。しかし一方で、本書は全く予期せぬ副産物も生んだ。それは、ワールドカップ開催地における写真展の開催である。「写真展・サポーター新世紀」は、この年の新潟での開催を皮切りに、結局2001年まで断続的に続くこととなる。

 ちょうどその頃、私の生活水準は最悪の一言に尽きた。写真や原稿ではまず食えないので、ありとあらゆるアルバイトをしながら何とか糊口をしのいでいたのである。そんな中で、この年は仕事と私生活で特筆すべきことがあった。まず、憧れの『サッカー批評』で初めて原稿が採用されたこと。それから、とあるパーティーで未来のカミサンと出会ったことである。

■2000――スポーツ・ナビの設立、そして「ディナモ」への旅

 1月8日の高校サッカーの決勝(市立船橋対鹿児島実業)。試合前、余ったチケットを誰か知り合いにプレゼントしようと国立競技場の周辺をうろついていたら、電通のH氏が声をかけてきた。チケットを受け取ったH氏は「おお、グラッチェ、グラッチェ」と礼を述べてから、「今度、新しいビジネスを始めるんだ。興味があれば声を掛けるよ」と言ってゲートをくぐっていった。隣にいた彼女(後のカミサン)が一言。「わらしべ長者みたいになるといいね!」――実際のところ、彼女の読みは鋭かった。

 この年の夏(すなわちシドニー五輪に合わせて)、H氏はスポーツのポータルサイト、スポーツ・ナビゲーションを設立。なぜか私もサイト・オープンのお手伝いをすることとなり、同サイトとの関係は現在まで続くこととなる。

  スポーツ・ナビの設立直前には、オランダとベルギーの共同開催となったユーロ2000を観戦。お目当てはもちろん、プラーヴィ(ユーゴ代表)であり、ピクシーであった。0−3から一気にドローに持ち込んだスロヴェニア戦、ヒールになりきって接戦をモノにしたノルウェー戦、そして1−6と虐殺されたオランダ戦。いずれも、私には大切な思い出である。そしてドラガン・ストイコヴィッチという稀代のフットボーラーの国際舞台でのキャリアは、事実上この大会で終わった。

 この年、私の活動は 新たな局面を迎えていた。「旧ソ連のフットボール事情を取材したい」という漠然とした想いは、2年後に上梓することとなる『ディナモ・フットボール』(みすず書房)に結実することとなる。この年の秋、私はドイツ、ポーランド、ウクライナ、ロシア、グルジアを取材。実にスリリングで楽しい旅であった。

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