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■2001――写真展を通した、さまざまな出会い
ワールドカップ日韓大会を翌年に控えたこの年、しかし当時の私はまだ、業界のメインストリームから背を向けて、唯我独尊の道を突き進むことが許されていた。引き続き「旧社会主義国におけるディナモの現状」を取材すべく、この年の春にはロシア、ルーマニア、アルバニア、トルコ、クロアチアを踏破。この時の取材をもって、『ディナモ・フットボール』の骨子と方向性はほぼ定まった。以後は粛々と執筆活動が続く。
とはいえ、この頃の私の活動がワールドカップと全く無縁であったわけでもない。99年に新潟で始まった「写真展・サポーター新世紀」は、その後も東京、富山、静岡、平塚と続き、この年は宮城と埼玉で開催されている。自分の作品を通して、さまざまな土地のフットボールファンとめぐり合う機会が得られたのは、本当に写真家冥利に尽きる。もちろん、写真展開催に奔走してくれた皆さんには、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。
そういえば、NPO法人JSA(日本サポーター協会)とのお付き合いが始まったのも、まさにこの年からだ。JSAには、このHPのサポートで尽力していただいている。
仕事以外での大きな出来事としては、この年の6月にカミサンと入籍した。出会ったころは呆れるほどの貧乏暮らしを続けていた私も、この年にはようやく生活も安定し、カミサンと生活を共にするようになってからは、気持ちにも余裕が生まれるようになった。生活に追われながら悲壮感だけで仕事をしていた時代も、今にしてみれば懐かしい思い出である。
足掛け3年の取材を経て、ようやく3冊目の著書『ディナモ・フットボール』が発売された。ワールドカップのドローで、日本とロシアが同組になった幸運もあり、地味でマニアックなテーマにしてはそれなりに話題になった。私自身、3年ぶりの著書ということもあり、非常に思い入れのある作品だ。
そうこうするうちに、人生2度目のワールドカップが近づいてくる。自分が取材パスをもらって大会を取材できるとは、夢にも思わなかった。スポーツ・ナビから大会取材の依頼を受けたのは、この年の2月。以後、ワールドカップ終了までの間、私はフィリップ・トルシエ率いる日本代表を追い続けることとなる。意外に思われるかもしれないが、私がスポーツ・ナビで代表戦のコラムを執筆するようになったのは、まさにこの年からである。さらに言えば、スポーツ・ナビの「風物詩」となっている日記形式のコラムもまた、この年のワールドカップからスタートした試みであった。
初めてのワールドカップ取材は、何もかもが新鮮かつ刺激的な体験であった。加えて好カードは目白押しだったし、日本がベスト16進出の瞬間を目撃することもできた。しかし、韓国で過ごした決勝トーナメントの日々は、一転して猛烈な違和感を覚えつつ、苛立ちを募らせる日々であったように思う。名ばかりの共催、誤審疑惑、代表チームしか見ていない「ホスト国」の人々、そして、そのような隣国を無条件で賛美し続ける日本のメディア……。それら全てが、何とも許し難い「フットボールの敵」の所業に思えたので、私は日記の中で何度も吼え続けていた。当時の日記を読み返してみると、大会の渦に巻き込まれまいと必死でもがいている、年甲斐もなく青臭い自分の姿が浮かび上がってくる。
大会終了後、私は深刻な虚脱感に見舞われた。今後の身の振り方について、そして自分を取り巻く状況の変化について、想いを巡らせる気力さえ失せていたのである。
■2003――未知なる国々のLIVING FOOTBALL
ワールドカップ以後、新たに日本代表監督に就任したジーコについて、私は格別な興味も期待感も抱くことはなかった。よってこの年は、やや遠巻きに日本代表を眺めることが多くなった。例外は、フランスで開催されたコンフェデレーションズカップである。しかし結局のところ、この大会でのジーコ・ジャパンはグループリーグ3試合で敗退。その後、カメルーン代表のマルク=ヴィヴィアン・フォエが試合中に急死するなど、何とも後味の悪い大会に終わってしまった。
このコンフェデ杯では、選手のコンディションを無視した超過密スケジュールが問題視されたが(炎天下にもかかわらず、中1日のインターバルだけで試合が行われた)、同時期、ロシアの大富豪がチェルシーを買収したり、デイヴィッド・ベッカムを加えた「銀河系軍団」が大切なシーズン直前にアジア(金儲け)ツアーを敢行するなど、フットボール界の商業主義路線が抜き差しならぬところまで来ていたのが、まさにこの年であった。
そんな状況に心底倦んでいた私は、欧州フットボールのメインストリームからの逃避を試みる。おりしも開催を翌年に控えた、ユーロ2004の予選が佳境に入っていたこともあり、それまで縁のなかった北欧諸国(フィンランド、フェロー諸島、アイスランド)での予選や、欧州最古の大会であるバルティック・カップ(この年はエストニアで開催)、さらにはトルコ中が盛り上がるイスタンブール・ダービーなど、日本代表そっちのけで「未知なる国々のLIVING FOOTBALL」を追い続けていた。
この年、もうひとつ特筆すべき出来事があった。私のデビュー作『幻のサッカー王国』のセルビア語版が、セルビア・モンテネグロで出版されたのである。3年以上に及ぶ翻訳作業に尽力してくれた日本・セルビア両国の友人たちには、本当に感謝の言葉もない。なお本書のささやかな収益は、セルビアにある歴史的な聖堂の補修費用に寄付させていただいた。
■2004――私にとっての「アジア元年」、そして天皇杯
この年のメインイヴェントは、やはりユーロ2004とアジアカップであろう。ポルトガルでの思い出は、もちろん美しく楽しいものであった。が、私にとっての2004年は、本格的にアジアに進出した、まさに「アジア元年」であった。
それまで、韓国を除いてただの一度もアジアの国々を訪れたことのなかった私が、心機一転、積極的にアジアに足を運ぶことになったのは、もちろん代表がらみの取材が増えたからである。この年は、UAEでのアテネ五輪・アジア最終予選を皮切りに、中国でのアジアカップ、さらにはインドとオマーンでワールドカップ・アジア1次予選を取材。確かに現場でのルーティンワークは増えたが、それまでヨーロッパの辺境ばかり歩いていた私にとって、アジアの風景の中で行われるフットボールは眩しいくらいに新鮮であった。
ジーコ・ジャパンと本格的に向き合うようになったのも、この年の後半からである。アジアの1次予選でさえ余裕のない戦いを続けている現代表チームに、かねてより疑念を覚えていた私は、ジーコ支持の条件として「アジアカップ連覇」という高いハードルを設定していた。だが、結果はご存知の通り。準々決勝・ヨルダン戦での『あり得ない』PK戦逆転勝利、準決勝・バーレーン戦での「殴り合い」の末の勝利、そしてホスト国・中国との決勝での胸のすくような勝利。嵐のようなブーイングの中、選手たちが誇らしげにトロフィーを掲げる姿に接した瞬間、私は公約どおりジーコが率いるこのチームを積極的にサポートしていくことを決意した−−−のであるが、その後もジーコ・ジャパンが格下相手にいっぱいいっぱいの戦いを続けているのは、一体どうしたことか。お陰で最近は「今度の試合は、どんなスリルが味わえるのだろう」と、楽しみにさえ思えるようになった(嘘です)。
もうひとつ、印象深いのが天皇杯である。この年、9月開幕となった天皇杯を、私は1回戦から決勝まで10試合、北は仙台から南は長崎まで移動しながら観戦している。ここでの新発見は、JFLや地域リーグに所属するクラブのレヴェルの高さと、日本のフットボール界の裾野の広さである。
これまで国外の辺境地ばかりに目を向けていた私であったが、フットボールの根源的な面白さは意外と身近にあることを、この取材であらためて思い知った次第だ。
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